スタジオコラム 照国寺の改修

Category 未分類 — @ 2013年7月12日

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(写真は藤塚光政さんの写真です。)

照國寺は鎌倉時代、建治3年(1277)に開基された、南会津郡南会津町 旧伊南村にある時宗一向正派の寺院である。久川城河原田家の菩提寺から、蒲生氏郷配下になった後、安永9年(1780)頃に現在の本堂が建設された。現在で築232年を数える。 昭和45年 (1970)に茅葺き屋根にトタン被せ葺き工事を行いその後は2010年現在の改築までに小さな修繕でしのいできた。冬は、隙間風により室内に雪が積もり、床下からの風圧で畳が捲れ上がるという話を住職から教えて頂いた。雪の重みのため屋根の外周部には柱が建てられ、凍結により壁が剥がれ落ちていた。数年前、僕たちは、檀家の方たちと照国寺の改修に取り組んだ。

 檀家総数は220を数えるが、その檀家の大部分は65歳を超え高齢化が進んでいる。檀家だけでなく旅の人達の行き倒れた無縁仏を供養した遺骨も並び置かれている。過疎の山村の高齢化した檀家による修繕の事業はどのような意味を持つのだろうか。寺の存在は、様々な理由で跡取り不在の檀家にとって、心の支えでもある。その檀家の多くは自給自足のような生活でもあり、年金の一部から修繕費として献金されたと考えられた。その修繕費の合計は、寺社専門の改築業者の示す見積額の半分を満たすに過ぎないものであった。

 集まった大切なお金が基準だと考えた。新築時の積算のように、費用の積み重ねではなく、改築の意味を、照国寺の改修の歴史、檀家と今後の将来の支えの関係、にあるとし、必要な工事について一つ一つの施工の方法について考え直した。数十年後の地域の残る子孫に維持管理費用の負担がかからないこと、そのため構造と基礎は揺るぎないものにするというのが大きな方針だった。

 ①予算管理委員会を作り、工事内容に関する説明会を開き檀家内での意思統一をし、委員会によるCM方式を活用すること。
②傾いた構造体の修正と、屋根の耐久性高め、今後大規模な修繕が50年程度行なわなくて良い想定をすること
③基礎と床下間の通風を確保し、昔ながらの置き石を撤去させないこと
④アルミサッシュなどの既製品寸法が合わない前提でも、建具周りや縁側が傷まない工夫をすること
⑤他の地域に転居した檀家さんが見ても理解できる昔ながらのシルエットを保ち続けること
⑥内装材や下地も、本来の意思を伝える材料はできる限り残してゆくこと
⑦断熱・気密の環境は、現代の基準のものとし、冬にも寒さを感じず寺に集えること

 施工業者に対して改修工事の方針を明確にし、見積もり段階で予想できないものに対する余裕の予算取りを出来るだけなくして行くことで、大きな減額が可能となった。

 住職の意思は、過疎の集落が抱える問題に対して、一つの形として残されることとなった。

 はりゅうウッドスタジオの作品紹介 照国寺

核家族の家

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核家族の家

青森県平川市

敷地は、小さな集落の輪郭部分に位置し、2面を道路に面したと細長い畑である。
施主からの要望は、道路からの視線の制御、プライバシーの確保と、平屋での生活、津軽の気候風土にあった素朴な素材を使用するという、シンプルかつ力強いものだった。

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豪雪地帯でみられる急勾配屋根は南に面を向け、北面の屋根投影ラインを外壁とする。部分的に透明の屋根を差し込み、南北に光がこぼれる屋根は、夏のねぷたの季節を待ちわびるように、長い雪国の冬の空を暖かく照らす。

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ポリカーボネートの透明な屋根から光が落ちる。
コンクリート部分には、軽自動車も停める事ができる。

 

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落雪が隣地に落ちないような屋根と、屋根が津軽の風景をつくる

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北側からは光も入り、上下のたかさによる通気をおこなっている。。

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津軽平野を望む南側の窓。

前面道路側にからのプライバシーをまもることができるような高さの窓を設定している。

 

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施主の奥様は、自宅でエステサロンを経営している。小規模での経営のため、水廻りは住宅部と共有する計画とし、仕事場と住宅のゾーニングを分けた。

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リビング

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建築概要

■建築概要

 

核家族の家
所在地   青森県平川市
主要用途  住宅
設計期間 2009.04〜2009.11
工事期間 2009.12〜2010.05
構造   木造在来軸組工法
規模   地上2階建
建築面積  101.85m2
延床面積  119.45m2


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  • 1.津軽平野を望む印象的な民家のシルエットの家です。
  • 2.集落内での家制度が続いてきた歴史から核家族としての在り方を考えた家です。
  • 3.落雪の処理を考慮した家です。

 

スタジオコラム 大内の御柱物語

Category スタジオブログ スタジオメモ — @ 2013年7月3日

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古く価値のある物件の保護を目的としての保存だけが、建築によって歴史を表現することとは考えていない。

 数百年前からそこに住み続ける人達が語る方言や、習慣、祭り、素材は進化したとしても夕日をバックに映る影絵の様な田園風景は、言葉はなくとも何か伝わってくる。私達は設計者として携わりながらそれぞれの場所にそれぞれの物語を見てきた。

 江戸時代に会津西街道の半農半宿から始まった下郷町大内宿の建物は、南北軸の街道筋に沿って整然と両側に家々が並んでいる。茅葺きに一度被せたトタン屋根が剥がされ、整備された舗装道路も砂利道に戻され、大内宿はかつての姿を取り戻し、観光地として再び脚光を集めることになった。

 旧下野街道沿いの外観は町並みが守られており、多くの民家はこの街道沿いに民家を生かした店舗をもうけ、裏側に現代の要求にもとづいた生活空間を生み出していて、表の顔と個人の生活が一つの古民家の中で共存している様にも見えた。施主は「結」を通じた相互扶助の制度としての茅葺の技術を継承する伝承者の一人でもあった。寒い冬の季節には家族三世代が一つの部屋に集まって寝るような生活と、子供たちの成長に合わせて二階部分の改築に挑戦していた。大内宿の屋根の特徴としては、通り沿った屋根の納まりは寄棟になっていて明かり取りもついてなく、裏通り側の屋根の納まりは小平(こびら)が付いた兜造りに近い形状をしていた。屋根裏の2階は通風や採光の機能は十分でない。寄せ棟の片側の小平に屋根を乗せることで、暗い冬に明るい空間をつくる予定であった。50の年齢樹となる祖父の代に植えた杉林を伐採、木取り、製材し骨組みが建てられた。しかし、ある日家族のためにつくる空間と、屋根葺き職人としての気位の矛盾にたいして葛藤が芽生えた。一度くみ上げられた屋根から、垂木と隅木が外された。しかし祖父の植えた御柱を切る直前で作業は止まった。やがて梅雨が過ぎ、夏が過ぎ、柱が緑色に変色する頃、角のように空に飛び出た柱に、伊勢神宮のお札が備えられ作業が始まった。

 大内宿では集落の家並みや茅葺だけでなく、古い生活風習も残されていて、日帰り観光の人々が帰った後の夏の日の夕方に、小学生までの子供達が作る火の用心の警護の拍子木がかけ声と一緒に鳴り響いていた。こんな集落で育った子供達は地元に対する愛着が強く、都会での生活を体験しても地元に戻る確率が高いと聞いたことがある。

 建築により古民家を復元して、切り取った時間だけを維持継承するのではなく、大内宿の人達がやり続けている習慣が、風景を残すためにどれだけの後押ししていのるかは計り知れない。数百年守られ続けてきた人間関係の継続がこのような行為の中に残されていて、古民家での生活を知らない人々が訪れた時に何かを感じられる建築を考えることを自覚できた気がした。

(スタジオのHP内の大内の御柱物語についての紹介はこちらです。)

大内の御柱物語

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